The Project Gutenberg EBook of Horadanshaku tabimiyage, by Kuni Sasaki

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Title: Horadanshaku tabimiyage

Author: Kuni Sasaki

Release Date: October 16, 2010 [EBook #34084]

Language: Japanese

Character set encoding: UTF-8

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Produced by Masaki Shibata





Title: 法螺男爵旅土産 (Horadanshaku tabimiyage)

Author: 佐々木邦 (Sasaki Kuni)

Language: Japanese

Character set encoding: UTF-8

Produced by Sachiko Hill and Kaoru Tanaka. (This file was produced from images generously made available by Kindai Digital Library)

[Pg 1]

法螺ほら男爵だんしやく旅たび土產みやげ

佐々木邦譯

暴風ばうふうと胡瓜きうりの樹きの話はなし

 拙生せつせいの髯ひげが丁年ていねん到逹たうたつの宣言せんげんをする以前まへ、もつと碎くだいて申まをせば、最早もはや子供こどもでもなく、さりとて未いまだ大人おとなでもない頃ころ、拙生せつせいは世界せかい觀光くわんくわうの渇望かつばうを口癖くちくせのやうに洩もらしてゐた。 ところが待まてば海路かいろの日和ひよりとやらで、父ちゝはセイロン島たうへの航海かうかいに拙生せつせいの隨伴おともを御許可おゆるしになつた。 セイロン島たうには父ちゝの叔父をぢに當あたる人ひとが、知事ちじ[Pg 2]として最早もう長ながい事こと居ゐる。

 我等われらはホルランド王室わうしつの國書こくしよを奉戴ほうたいしてアムスターダムに纜ともづなを解といた。 此この航海かうかい中ちゆう一寸ちよつと記載きさいの價値ねうちあるのは暴風ばうふうの起おこつた事ことである。 それが尋常じんじやう一様やうの暴風ばうふうでなく、我等われらが薪水しんすゐを取込とりこみに碇泊ていはくしてゐた島しまの、高樹かうじゆ大木たいぼくを根拔ねこぎきにした。 啻たゞに根拔ねこぎにしたばかりでない。 其中そのうちには何噸なんとんといふ重量おもいのがあつたけれど、其それが風かぜに攫さらはれて、果はては宛然まるで空中くうちゆうに漂たゞよふ小鳥ことりの羽毛はねのやうに見みえた。 少すくなくとも海拔かいばつ五哩まいるの所ところに逹たつしたのであらう。 そして暴風ばうふうが止やむか、止やまないに、其木そのきが夫それ〴〵舊もとの所ところに垂直すゐちよくに落おちて再ふたゝび根ねを張はるには拙生せつせいも一驚きやうを喫きつした。 しかし一番ばん大おほきい[Pg 3]illustratio03奴やつは空中くうちゆうに吹上ふきあげられた時とき、其枝そのえだに木訥ぼくとつな百姓ひやくしやうの老夫婦らうふうふが乗合のりあはせてゐた。 乗合のりあはせてゐたといふと馬車ばしやか何なんぞのやうだが、實じつは胡瓜きうりを把とつてゐたのである。 世界せかいも此この地方へんになると日用にちようの靑物あをものは皆みな木きに實なつてゐる。 さて此この夫婦ふうふの體量めかたが幹みきの衡平かうへいを失うしなはせたから、[Pg 4]大木たいぼくは平ひらたく地上ちじやうに落おちて、折をりから通合とほりあはせた島しまの首領しゆりやうを即座そくざに壓殺おしころして了しまつた。 首領しゆりやうは大木たいぼくが屋根やねに落おちて、家いへぐるみ潰つぶされてはならぬと思おもひ、少時しばらく戶外こぐわいを徘徊はいくわいして、大分だいぶ木きも降ふり止やむだからと、今いまし庭園ていゑんを通とほつての歸途かへりみちに運好うんよく腦天なうてんを打うたれたのである。 此この運好うんよくといふ文字もんじは聊いさゝか說明せつめいを要えうする。 といふのは此この首領しゆりやうといふのは島しま一體たいの鼻摘はなつまみで、獨身者ひとりものであつたが、其その一人ひとりの貪慾どんよくと壓制あつせいの爲ために良民りやうみんは殆ほとんど食くふや食くはずの憂うき目めを見みてゐたのである。

 此この惡漢しれものの捥取もぎとつた財貨たからは空むなしく倉くらの中なかで唸うなつてゐるのに、奪うばはれた貧乏人びんばふにんは飢寒きかんに泣なくといふ有樣ありさまであつた。 此この暴君ばうくんの[Pg 5]沒落ぼつらくは全まつたく偶然ぐうぜんであつたが、縱令たとひ怪我あやまちの功名こうみやうにもせよ、兎とに角かく壓制者あつせいしやを退治たいぢしてくれたのだからと、人民じんみんは感恩かんおんの表示しるしに胡瓜きうり取とり夫婦ふうふを戴いたゞいて知事ちじにした。

 我等われらは此この暴風中ばうふうちゆうに被かうむつた破損はそんを修繕しゆぜんして、新しん知事ちじ及および令夫人れいふじんに別わかれを吿つげ、目的地もくてきちに向むかつて順風じゆんぷうに帆ほを揚あげた。

 それから約やく六週間しうかんにして我等われらはセイロン島たうに着つき、其處そこで鄭重ていちような歡迎くわんげいを受うけた。 次つぎの珍奇ちんきな冒險ばうけんは多少たせう興味きようみを惹ひくであらう。

獅子しゝと鰐わにの話はなし

 [Pg 6]セイロン島たうに滯在たいざいする事こと二週間しうかんばかりの後のち、或日あるひ拙生せつせいは知事ちじの弟おとうとに連つれられて、鐵砲打てつぱううちに出でかけた。

 巨大おほきな湖みづうみが拙生せつせいの注目ちうもくを惹ひいた。 其その岸きし近ちかく來くると、何なにか背後うしろにガサ〳〵する音おとが聞きこえたと思おもつて、振返ふりかへつて見みると、拙生せつせいは殆ほとんど石化せきくわして了しまつた。 蓋けだし此この場合ばあひ恐おそらくは石化せきくわせぬ人ひとはなからうと思おもふ。 と申まをすは一疋ぴきの獅子しゝが目めに付ついたのである。 明白あきらかに當方たうはうを目差めざして、拙生せつせいの蚊かの脛すねのやうな體軀からだを以もつて食慾しよくよくを滿みたさうとして進すゝむでまゐる。 それも當方たうはうの承諾しようだくを求もとめずに遂行すゐかうしようといふのだから、恐おそれ入いらざるを得えない。 此この進退維谷ヂレンムマに際さいして如何いかに處决しよけつす可べきか?拙生せつせいは全然まつたく考慮かうりよの餘地よち[Pg 7]がなかつた。 拙生せつせいの鐵砲てつぱうには白鳥彈はくてうだまが込こめてあるばかり、其それより大おほきい彈丸たまは生憎あいにくにも何なんにも持合もちあはせがない。 しかし白鳥彈はくてうだまで此この動物どうぶつを殪たふし得えようとは思おもはなかつたが、兎とに角かく砲聲おとで驚おどろかせ、尙なほ多少たせう怪我けがをさせてやれる位くらゐの見込みこみはあつたから、先方せんぱうが然しかる可べき距離きよりに來くるのも待またず、拙生せつせいは火葢ひぶたを切きつて了しまつた。 砲聲おとは却かへつて動物どうぶつの憤怒いかりを增ました。 彼かれは今いまや急きふに步あしを早はやめた。 全速力ぜんそくりよくで近寄ちかよつて來くるやうに見みえた。 拙生せつせいは逃にげようと思おもつたが、其それは却かへつて心痛しんつうを增ましたに過すぎぬ。 といふのは振返ふりかへり樣さま、拙生せつせいは拙生せつせいを呑込のみこむために大口おほぐちを開あいた鰐わにと危あやうく鉢合はちあはせをする所ところであつた。 前まへに述のべた通とほり右手みぎては湖水こすゐである。 左手ひだりて[Pg 8]は絕壁きりぎしである。 落おちれば下したは猛獸まうじうの巢窟さうくつだと後あとから聞きいて承知しようちした。 短言たんげんすれば、獅子しゝは最早もはや後脚あとあしで立上たちあがり、今いまにも掴蒐つかみかゝりさうにしてゐるから、最早もはや生命いのちは無ないものと觀念くわんねんして、拙生せつせいは恐懼きようくの餘あまり、無意識的むいしきてきに其その場ばに平伏つツぷした。 後あとから察さつするに、獅子しゝは直たゞちに飛蒐とびかゝつたに相違さうゐない。 拙生せつせいは姑しばらくの間あひだ言語げんごに述のべがたき心情こゝろもちで刻々こく〳〵猛獸まうじうの牙きばか爪つめが身體からだの何處どこにか當あたるだらうと待まつてゐた。 數秒すうべうの間あひだ尙なほ腹這はらばひのまゝ待まつと、熱烈ねつれつ且かつ異樣いやうな叫音さけびを聞きいた。 曾かつて拙生せつせいの耳みゝを煩わづらはした音響おんきやうの中うちに、之これに似寄によつたものは一つもない、と其その時ときは恐おそろしくて無我むが夢中むちゆうだつたが、後あとから然さう思おもつた。 しかし事情じじやうを見みれば、其それも道理だうりで、聲こゑの出[Pg 9]所でどころillustratio09が分わかれば、諸君しよくんも夫それ然しかり豈あに夫それ然しからざらんやと合點がつてんの行ゆく事ことであらうと存ぞんずる。 拙生せつせいは尙なほ少々せう〳〵聞耳きゝみゝを立たてゝ、死しぬか生いきるかと頭あたまを擡もちあげて、周圍あたりを見廻みまはすと、獅子しゝは拙生せつせいに飛付とびつく方はうに氣きを取とられた餘勢よせいで、拙生せつせいが倒たふれた刹那せつな、既すでに申まをした通とほり廣ひろく開あいた鰐わに[Pg 10]の口くちに飛込とびこむだのである。 前者ぜんしやの頭かしらは後者こうしやの喉のどに嵌はまり、此これは其それを吐出はきださう、彼かれは其それを拔取ぬきとらうで、轉々てん〳〵悶々もん〳〵してゐる。 之これを見みた拙生せつせいの歡喜よろこびは寔まことに何なんに例たとへやうもなかつた。 運好うんよく拙生せつせいは腰こしに付つけた獵刀れふたうを思出おもひだして、名刀めいたうの難有ありがたさ、唯たゞ一擊ひとうちで獅子しゝの頭くびを落おとした。 血ちが颯さつと迸ほとばしつて、首くびのない死骸しがいが、足元あしもとに蹣跚ぐたりと倒たふれた時ときの心地こゝろもちの惡わるさ!次つぎに拙生せつせいは獵銃れふじうの臺尻だいじりで、獅子しゝの頭あたまを鰐わにの喉のどに突込つきこみ突込つきこみ、到頭たうとう窒息ちつそくさせて鰐わにも殺ころして了しまつた。 彼かれは呑下のみくだす事ことも出來できず、吐はき出だす事ことも叶かなはなかつたのである。

 斯かくして拙生せつせいが二强敵きやうてきを平たひらげると間まもなく、同伴つれの男をとこが拙生せつせいを探さがしに來きた。 拙生せつせいが彼かれの後あとを追おはぬに心付こゝろづいて、さては道みち[Pg 11]を踏違ふみちがへたか、それとも何なにか變事まちがひが起おこつたかと、早速さつそく引返ひきかへして來きたとの事こと。

 お互たがひに成功せいこうを祝しゆくした後のち、拙生せつせいは鰐わにの身長たけを量はかつて見みたら、丁度きつかり四十尺しやくあつた。

深雪みゆきと高塔かうたふの話はなし

 拙生せつせいは冬ふゆの最中さなかにロシヤの旅たびを思立おもひたつた。 旅人たびゞとは口くちを揃そろへて、ドイツ北部ほくぶポーランド、コーアランド、リボニヤ等などの道路だうろ險惡けんあくを言いふが、拙生せつせいは嚴寒げんかんなれば雪ゆきと氷こほりで却かへつて道みちが容易らくだらうと考かんがへたのである。 拙生せつせいは馬うまで出掛でかけた。 これが最さい簡便かんべんの旅[Pg 12]行りよこう法はふだと思おもつたので。 其その中うちに夜陰やいんと暗黑あんこくが追着おひついた。 村むらは一個ひとつも見みえぬ。 地ちは一面めんに雪ゆきが降積ふりつむでゐる。 拙生せつせいは道みちは全まつたく不案内ふあんないである。

 拙生せつせいは草臥くたびれて馬うまから下おりて、雪ゆきの上うへに現あらはれてゐた尖とがつた木きの幹みきのやうなものに馬うまを繋つないだ。 護身ごしんの爲ためにピストルを腕うでの下したに置おいて一睡すゐを貪むさぼつた。 能よく眠ねむつたものと見みえて、覺さめた時ときには最早もはや日ひが昇のぼつてゐた。 しかし氣きが付ついて見みると、拙生せつせいは村むらの中央まんなかの敎會堂けうくわいだうの墓地ぼちに寢ねてゐる。 是これには何なんとも言いひやうなく喫驚びつくりした。 そして尙なほ拙生せつせいの馬うまが見みえぬ。 間まもなく何處どこか上うへの方はうで、奴やつの嘶いなゝく聲こゑがした。 思おもはず見上みあげると、更さらに仰天ぎやうてん[Pg 13]した事ことには、會堂くわいだうの高塔かうたふの上うへの風見かざみに拙生せつせいの馬うまが手綱たづなで繋つないである。 事態じたいは直たゞちに闡明せんめいした。 所謂いはゆる大陸たいりく氣候きこうの激變げきへんで、雪ゆきが解とけるに從したがつて、拙生せつせいは熟睡じゆくすゐの儘まゝ徐々じり〳〵と此この會堂くわいだうの墓地ぼちまで下おりて來きたのである。 昨夜さくや暗黑くらやみ紛まぎれに木きの幹みきと見みて馬うまを繋つないだのは實じつは會堂くわいだうの高塔かうたふの風見かざみであつた。

 斯かう次第しだいが分わかれば面倒めんだうも何なにもない。 拙生せつせいは直樣すぐさまピストルを取出とりだして、狙ねらひ定さだめて引金ひきがねを引ひき、美事みごと手綱たづなを二つに絕たち、恙つゝがなく馬うまを下おろして時ときを移うつさず旅たびを續つゞけた。 (流石さすがの男爵だんしやくも此處こゝでは大おほ手稃てぬかりをしてゐる。 長ながい間あひだ馬うまを餓うえさせたのだから、飼葉かひばを命めいじた位くらゐの事ことは言いつて置おく筈はずだと思おもふ。 )

[Pg 14]

馬具ばぐに入はいつた狼おほかみ

 馬うまは拙生せつせいを乗のせて能よく走はしる。 ロシヤ内地ないちに入はいつてから拙生せつせいは騎馬きば旅行りよかうは何どうやら冬季とうきの流行りうかうでないと合點がてんした。 そこで常例じやうれいに從したがつて其その國くにの習慣しふくわんを採用さいようし、單たん馬橇ばそりを求もとめ、ペテスブルヒを目めがけて韋駄天ゐだてん驅がりに進すゝむだ。 イーストランドであつたか、ヂャゲマンランドであつたか、精くはしくは思出おもひだせないが、兎とに角かく寂さびしい森もりの唯たゞ中なかだつたと記憶きおくする。 拙生せつせいは恐おそろしい狼おほかみの嚴冬げんとうの餓うゑに驅かられて、全速力ぜんそくりよくで追おつて來くるのに氣きがついた。 と思おもふ間まに狼おほかみは追着おひついたから、到底たうてい遁のがれる術すべはない。 拙生せつせいは唯たゞ機械[Pg 15]的きかいてきにillustratio15橇そりの中なかに平伏へいふくして、無上むしやうに馬うまを走はしらせた。 ところが間まもなく拙生せつせいの願ねがつた事ことで、而しかも此際このさい到底とても出來できない相談さうだんだと諦あきらめてゐた一事じが起おこつた。 と申まをすは、狼おほかみは拙生せつせいには毫すこしも目めを吳くれず、頭あたまの上うへを跳越はねこして、狂亂きやうらんのやうに馬うまの尻しりに獅嚙付しがみつき、直たゞちに憐あはれむ可べき動物どうぶつの[Pg 16]臀部でんぶを搔毟かきむしつて肉にくを貪むさぼり始はじめた。 拙生せつせいは自分じぶん丈だけは安全あんぜん、最早もはや見みつかる氣遣きづかひなしと、窃ひそかに頭あたまを擡もたげて樣子やうすを覗うかがつたが、既すでに狼おほかみが馬うまの腹部ふくぶまで喰込くひこむでゐるのには何なんとも名狀めいじやうし難がたい恐おそろしい心持こゝろもちがした。 頭あたまの方はうまで喰貫くひつらぬいたのは其それから良やゝ少時しばらくの事ことで、時分じぶんは好よしと拙生せつせいは鞭むちの柄えで懸命けんめいに狼おほかみを突ついた。 此この思おもひがけない背面はいめん攻擊こうげきに狼おほかみは膽きもを潰つぶして馬うまの死骸しがいを筒拔つゝぬけ、到頭たうとう馬具ばぐの中なかに四合しつくり篏はまつて了しまつた。 同時どうじに馬うまは摚乎ばたりと倒たふれる。 さあ拙生せつせいは必死ひつしになつて鞭むちを揮ふるひ、打うつわ〳〵。 竟つひに拙生せつせいと狼おほかみは期きせずして恙つゝがなくベテスブルヒに乗込のりこむだ。 や、都人士とじんしの驚おどろいたの驚おどろかないのつて!

[Pg 17]

野豚のぶたと猪ゐのしゝの話はなし

 僥倖げうかうは屢しばしば人間にんげんの錯誤まちがひを正たゞす。 之これに就ついては拙生せつせいに特別とくべつな實例じつれいがある。 拙生せつせいは森もりの奧おくで野豚のぶたの牝牡めすをすを見みつけた。 牝めすは牡をすの直すぐ後あとに跟ついて走はしつて行ゆく。 拙生せつせいの彈丸たまは外それたけれど、唯たゞ前方まへの奴やつが逃去にげさつたばかりで、牝めすは地ちから生はえたやうに、凝ぢつとして立たつてゐる。 事ことの次第しだいを調しらべて見みると、後あとの奴やつは年寄としよりで盲目めくらで、引ひいて步あるいて貰もらふ爲ために息子むすこの尻尾しつぽに促つかまつてゐたのである。 拙生せつせいの丸たまは二疋ひきの間あひだを通貫とほりぬけ、盲豚めくらぶたが啣くはへてゐた其その導みちびきの綱つなを絕たち切きつて了しまつた。 そして案内者あんないしやが一向かう引ひいてくれぬ[Pg 18]ものだから、彼女かのぢよは當然たうぜん默だまつて立止たちとまつてゐた。 そこで拙生せつせいは千切ちぎれた豚ぶたの尻尾しつぽを把とり、年寄としよりの豚ぶたを家うちまで引ひいて歸かへつた。 拙生せつせいに於おいても何なんの面倒めんだうなく、豚ぶたの方はうでも素もとより盲目めくらの事ことであるから拒こばみもせず恐おそれもせず。

 野豚のぶたも恐おそろしいが、尙なほ猛惡まうあくで危險きけんなのは猪ゐのしゝである。 其その猪ゐのしゝの一疋ぴきに或日あるひ拙生せつせいは運惡うんわるく森もりの中なかで行當ゆきあたつた。 攻守こうしゆ共ともに武具えものとしては寸鐵すんてつをも帶おびてゐない。 狂くるへる動物どうぶつが拙生せつせいに橫打擊よこなぐりを喫くらはせようと狙ねらつた刹那せつな、拙生せつせいは樫かしの木きの後うしろに姿すがたを匿かくした。 すると先生せんせい外はづしを喫くつて、餘勢よせい直たゞちに止とゞまり難がたく、樫かしの幹みきに牙きばを突通つきとほし、打擊だげきを繰返くりかへす事ことも叶かなはず退しりぞく事こともならず、唯たゞ地團太ぢだんだを踏ふ[Pg 19]むでゐた。 『占しめた〳〵、拙生せつせいにも量見りやうけんがあるぞ!』と拙生せつせいは矢庭やにはに石いしを拾ひろつて、何どんな事ことがあつても逃にげられぬやう、拙生せつせいが近ちかくの村むらから戾もどる迄まで待まつてゐるやうに、敵てきの牙きばを折釘をりくぎのやうに打曲うちまげた。 それから拙生せつせいは悠然いうぜんと村むらに歸かへり、繩なはと車くるまを借かりて引返ひつかへし、美事みごと先生せんせいを生捕いけどりにして家うちに戾もどつた。

雄鹿をじかと櫻さくらの木きの話はなし

 諸君しよくんは獵師れふしの守まもり本尊ほんぞんセント・ハバートと森もりの中なかで彼かれに現あらはれたる角つのと角つのの間あひだに十字架じふじかを立たてた雄鹿をじかの物語ものがたりを定さだめて御承知ごしようちであらう。 それは兎とに角かく拙生せつせいは自みづから目擊もくげきした珍話ちんわを紹介せうかい[Pg 20]致いたさう。 或日あるひ悉ことごとく彈丸たまを使盡つかひつくした揚句あげくに、はからずも拙生せつせいの面前めんぜんに立派りつぱな雄鹿をじかが現あらはれた。 恰あたかも拙生せつせいの彈丸たま袋ぶくろを取調とりしらべて其その無一物むいつぶつを承知しようちしてゐるやうに、安心あんしんして拙生せつせいを打目戍うちまもつてゐる。 拙生せつせいは直たゞちに火藥くわやくを込こめ、泥棒どろぼうを捕つかまへて繩なはを綯なふやうに、急いそいで櫻坊さくらんばうを捥もぎ取とり、一掴つかみを丸たまに代かへた。 さて狙ねらひ定さだめて打放うちはなすと、其それが鹿しかの額ひたひ、角つのと角つのとの間あひだに命中めいちうし、彼かれは度膽どぎもを拔ぬかれて蹣跚よろめいたが、其儘そのまゝ疾風しつぷうのやうに走去はしりさつた。 一二年ねんの後のち拙生せつせいは其その森もりで狩かりをしてゐると、角つのと角つのの間あひだに十尺しやく以上いじやうの櫻さくらの木きの生はえた立派りつぱな雄鹿をじかに出會であつた。 拙生せつせいは忽たちまち先年せんねんの冒險ばうけんを想起おもひおこし、これなん先さきに取逃とりにがしたる我わが獲物えものなれ、此處こゝで會あつたが百年[Pg 21]目ひやくねんめ、と唯たゞ一發ぱつで打倒うちたふし、一擧きよして腰肉にくと櫻漿チエリーソースに有付ありついた。 木きは能よく繁茂はんもして、櫻坊さくらんばうが鈴實すゞなりになつてゐた。 そして世よの常つねの木この實みよりも遙はるかに味あぢが佳よかつた。

熊くまと狼おほかみの話はなし

 日ひの光ひかりと拙生せつせいの火藥くわやくが、ポーランドの森もりの中なかで盡つきて了しまつた。 拙生せつせいは家路いへぢに急いそぐ途みちすがら、恐おそろしい熊くまに跟つけられた。 彼かれは疾走ひたはしつて、大口おほぐちを開あいて、今いまにも拙生せつせいに躍をどり蒐かゝらうとする。 ポッケットの中なかを隈くまなく探さがして見みたが、素もとより火藥くわやくも彈丸たまもない。 唯たゞ大切たいせつの火打石ひうちいしが二個ふたつあるばかり。 進退しんたい谷きはまつて拙生せつせいは其その一個ひとつ[Pg 22]を力委ちからまかせに怪物くわいぶつの口くちに投込なげこむと、其それが喉のどに下おりた。 苦くるしかつたと見みえて彼かれは一寸ちよいと橫よこを向むいたから、此この機きを利用りようして拙生せつせいは第だい二の火打石ひうちいしを再ふたゝび猛獸まうじうの口くちに投とうじたが、實じつに驚おどろく可べき大成功だいせいこうであつた。 第だい二の火打石ひうちいしは飛込とびこみさま、第だい一の奴やつに胃袋ゐぶくろの中なかで命中めいちうし、直たゞちに火ひを發はつして、熊くまは即座そくざに破裂はれつして了しまつた。 斯かくて事こともなく難なんを免まぬかれたが、いや、思出おもひだしても慄然ぞつととする。 拙生せつせいは再ふたゝび無手むてで熊くまと戰たゝかふ勇氣ゆうきはない。

 何どうも何なにかの因緣いんねんと見みえる猛惡まうあく凶暴きようぼうの動物けだものは恰あたかも本能ほんのうによつて其それを承知しようちしてゐるやうに、拙生せつせいが武器えものを持もたぬ時ときに限かぎつて襲おそつて來くる。 此この傳でんで或日あるひ拙生せつせいは見みるから獰惡どうあくな相さうをし[Pg 23]た狼おほかみに襲おそはれた。 餘あまり急きふで既すでに餘あまり近ちかく來きてゐるから拙生せつせいは唯たゞ機械的きかいてき本能ほんのうに從したがひ、拙生せつせいの拳こぶしを相手あいての裂さけた口くちに突込つきこむ外ほか道みちがなかつた。 安全あんぜんの爲ため拙生せつせいは無暗むやみと突込つきこむで、竟つひに拙生せつせいの腕うでが狼おほかみの肩かたの邊あたりまで入はいつた。 しかし如何いかにして狼おほかみから離はなれようか?斯かう間まの拔ぬけた姿勢しせいをして、何時いつまでも狼おほかみと顏かほを見交みかはしてゐるのは甚はなはだ不愉快ふゆくわいでならなかつた。 さりとて若もし腕うでを引拔ひつこぬけば彼かれは憤怒ふんぬ舊きうに倍ばいして飛蒐とびかゝつて來くるだらう。 是これは其その凄すごい眼まなこに明白あきらかに讀よまれる。 短言たんげんすれば拙生せつせいは狼おほかみの尻尾しつぽを捉とらへ、靴下くつしたを脫ぬぐやうに、力委ちからまかせに裏返うらがへしにして、漸やうやく猛獸まうじうと緣えんを切きり、地面ぢめんに叩たゝき付つけて、其儘そのまゝ歸かへつて來きた。

[Pg 24]

男爵だんしやくの駿馬しゆんめの話はなし

 所ところはリスアニヤに於おける伯爵はくしやくブルゾボスキイの別莊べつさう。 拙生せつせいは應接間おうせつまで貴婦人きふじん連れんと茶ちやを飮のむでゐた。 紳士しんし連れんは養馬所やうばじよから來きたばかりの良種りやうしゆの若馬わかうまを見みに下おりて行いつた。 すると突然とつぜんあれよ〳〵と喧けたゝましい聲こゑが聞きこえた。 拙生せつせいは階段かいだんを驅下かけおりて出でて見みると、馬うまは荒狂あれくるつて、人ひとを乗のせる所どころか、寄よせつけさうにもない。 勇膽ゆうたんの騎手きしゆまで血ちの氣けを失うしなつて、手てを出だせずにゐる。 失望しつばうは總すべての人ひとの顏色がんしよくに讀よまれた。 其時そのとき拙生せつせい少すこしも騷さわがず、飜然ひらりと駻馬かんばに跨またがつて、先まづ其その荒膽あらぎもを挫ひしぎ、拙生せつせい練逹れんたつの曲乗きょくのりを試こゝろみながら、さしものillustratio25[Pg 25]氣性者きしやうものを溫和をんわ從順じうじゆんに慣ならし込こむだ。 尙なほ貴婦人きふじん連れんに合點がてん行ゆかせ、無益むえきの恐怖おそれを一掃さうするやうに、拙生せつせいは開放あけはなつた食堂しよくだうの窓まどから、一鞭むち加くはへて室内しつないに乗込のりこみ、其中そのなかを何遍なんべんとなく或あるひは並足なみあし或あるひは駈足かけあし或あるひは高足たかあしで乗廻のりまはし、最後さいごに食卓しよくたくの上うへに乗上のりあがり、一間けんと二間けんの長方形ちやうはうけいの上うへ[Pg 26]で、今迄いままでの曲藝きよくげいを更さらに小規模せうきぼに繰返くりかへさせた。 さあ、貴婦人きふじん連れんがやんやと喝采かつさいするのしないのつて!馬うまは眞まことに巧者こうしやなもので、コップ一つ覆くつがへさなかつた。 是これが爲ために拙生せつせいの聲價せいか頓とみに上騰じやうたうし、殊ことに伯爵はくしやくは驚嘆きやうたんして、常例いつもの鄭重ていちような態度たいどで、此この若わかい馬うまを貴下きかに贈呈ぞうていする、何卒なにとぞ御笑納ごせうなふあつて、近々きん〳〵發足はつそくす可きミウニッヒ伯はくの率ひきゐるトルコ遠征軍ゑんせいぐんに投とうじ、願ねがはくは撼天かんてん動地どうちの功名こうみやう手柄てがらを立たて給たまへ、と强たつての懇情こんじやう。 そこで拙生せつせいは一隊たいの騎兵きへいを從したがへ、幾度いくたびか遠征ゑんせいに上のぼり、兵へいを操あやつる事こと縦橫じうわう無礙むげ、人ひとを殺ころす事こと草くさの如ごとく、遂とげたる勲功くんこうは當然たうぜん拙生せつせいの計算けいさんに入いる可べきものであるが、勇敢ゆうかんなる部下ぶかの努力どりよくも亦また决けつして閑却かんきやくすべからざるものと信しんずる。 [Pg 27]殊ことに拙生せつせいが先頭せんとうに立たつて、土耳古とるこ軍ぐんをオクザコーに追込おひこむだ時ときの如ごときは、いやはや顏かほの溫ほてるやうな激戰げきせんであつた。

 拙生せつせいのリスアニアンは駿馬しゆんめの事ことであるから、追擊つゐげきに際さいしては拙生せつせいが何時いつも先登せんとうである。 其日そのひも然さうで、敵てきが後門うしろもんから逃にげるのを見みて、拙生せつせいは部下ぶかを集あつめる爲ために、市場いちばに止とゞまるのを策さくの得えたものと思おもつた。 そこで拙生せつせいは止とゞまつたが、市場いちばには騎兵きへいの影かげも見みえぬ。 彼等かれらは他たの町まちを走はしつてゐるのであらうか?何なにか事變じへんが起おこつたのか?兎とに角かく遠とほくは離はなれてゐまい、その中うちに拙生せつせいの許もとに追着おひつくだらう、と思おもひながら、拙生せつせいは喘あへぐリスアニアンを市場いちばの泉いづみに水みづのませた。 彼かれは法外はふぐわいに飮のむ、泉いづみを飮干のみほさねば止や[Pg 28]まぬといふ勢いきほひで飮のむ。 しかし最早もはや部下ぶかの者ものが見みえさうなものと振返ふりかへつた時ときには其それも道理だうりだと思おもつた。 拙生せつせいの馬うまの胴どうから後方うしろ―即すなはち尻しりと後脚あとあしが、恰あたかも銳利えいりなる刄物はもので切取きりとられたやうに紛失ふんしつしてゐる。 飮のむだ水みづは直すぐに後方うしろへ拔ぬける。 是これでは何程いくら飮のむでも身みの養やしなひにならぬ。 何どうして此樣こんな事ことになつたかは、彼かれを伴ともなつて市しの正門せいもんに戾もどる迄までは全まつたく五里り霧中むちうであつた。 此處こゝで拙生せつせいは思當おもひあたつた―先さきに逃にげる敵てきを追おひながら無暗むやみと此この門もんに突入とつにふした時とき、敵てきは拙生せつせいの知しらぬ間まに扉とびらを下おろしたものと見みえる。 其その扉とびらといふのは、底そこに大釘おほくぎが列れつを爲なして植うゑてあつて、萬まん一の時ときには上うへから下おろして敵てきの侵入しんにふを防ふせぐ仕掛しかけになつてゐる。 彼あの[Pg 29]際さい敵てきが拙生せつせいを入いれまいとして急きふに下おろした刹那せつな、馬うまの臀部でんぶを切去きりさつたので、現げんに門外もんそとには拙生せつせいの愛馬あいばの胴どうから下したが、ピクリ〳〵してゐた。 拙生せつせいは早速さつそく獸醫じういを呼よむで、未まだ溫あたゝかい中うちに兩方りやうはうを繼合つぎあはせて貰もらひ、纔わづかに償つぐなひ難がたい損失そんしつを免まぬかれた。 彼かれは手近てぢかにあつた桂かつらの木きの小枝こえだと新芽しんめで繼目つぎめを縫ぬつてくれた。 傷きずは間まもなく療なほつたが、同時どうじに桂かつらの小枝こえだが馬うまの身體からだに根ねを張はり、枝えだを伸のばし、追々おひ〳〵葉はが繁しげり花はなが咲さき、お蔭かげを以もつて拙生せつせいは其その後のちの遠征ゑんせいは暑あつさ知しらずであつた。

トルコ豆まめと月つきの話はなし

 [Pg 30]拙生せつせいと雖いへども連戰れんせん連勝れんしようといふ譯わけには行ゆかなかつた。 或時あるときは衆寡しうくわ敵てきせず生擒せいきんの憂目うきめに遭あひ、殊ことに不遇ふぐうな事ことには奴隷どれいに賣うられた。 尤もつとも捕虜ほりよの賣買ばい〳〵はトルコの習慣しふくわんである。 (男爵だんしやくは後のちに皇帝サルタンの寵愛ちようあいを被かうむつた)此この屈辱くつじよくの狀態じやうたいに於おいて、拙生せつせい每日まいにちの勞役らうえきは、身體からだに骨ほねの折をれる事ことでなく、寧むしろ單調たんてう退屈たいくつの仕事しごとであつた。 其それは每朝まいあさ皇帝サルタンの蜜蜂みつばちを牧場まきばに追おひ、一日にち見守もりをして、日ひの暮くれる迄までに再ふたゝび箱巢はこすに追戾おひもどす事ことであつた。 或ある夕暮ゆふぐれ、拙生せつせいは蜜蜂みつばちを一疋ぴき見失みうしなつたが、氣きがつけば二疋ひきの熊くまが蜜みつを取とる爲ために其蜂そのはちを潰つぶさうとしてゐる。 拙生せつせいは銀ぎんの手斧てをのの外ほかに何なにも武器えものを持もたなかつた。 此この銀ぎんの手斧てをのは皇帝サルタンの庭師にはし又または農夫のうふの表章しるしなので。 拙生せつせいは熊くまを目[Pg 31]蒐めがけて件くだんの手斧てをのを投なげた。 唯たゞ追剝おひはぎを追拂おつぱらつて、蜂はちさへ助たすければ可いいといふ思惑おもはくだつたので。 が、拙生せつせいの腕うでの運うんの惡わるい振ふり加減かげんで、斧をのは飛とむで止とゞまらず、上うへへ上うへへと昇のぼつて行いつて、竟つひには月つきに逹たつした。 さあ奈何どうして取戾とりもどしたものか?と其處そこで拙生せつせいは肝膽かんたんを碎くだいた。 斯かういふ事ことが胸むねに浮うかむだ――トルコ豆まねといふ奴やつは大層たいそう生長のびが早はやいのみならず、驚おどろく可べき高たかさに逹たすするといふ。 拙生せつせいは時ときを移うつさず一本ぽんのトルコ豆まめを植うゑた。 其それが生長せいちやうしてから拙生せつせいは其その梢こずゑを三日月かづきの角つのに結付むすびつけた。 斯かう仕掛しかけが出來できた上うへは、殘のこる所ところは月つきまで登のぼつて行ゆくばかりである。 そして是これも見事みごとに成功せいこうした。 月つきの世界せかいは何なにも彼かも銀色ぎんいろで光ひかつてゐるから、同おなじ色いろの[Pg 32]手斧てをのを探さがすのはナカ〳〵小面倒こめんだうの仕事しごとであつた。 が、しかし拙生せつせいは苦心くしんの甲斐かひあつて、竟つひに籾殻もみがらや藁屑わらくづの積つむである所ところで大切たいせつの手斧てをのを見付みつけた。 さて今度こんどは月つきの世界せかいから人間にんげんの世界せかいへ歸かへるのである。 けれど驚おどろいたのは、太陽たいやうの光ひかりが既すでに拙生せつせいの豆まめを枯からした事ことで、最早もはや全まつたく拙生せつせいを下おろす用ように堪たへない。 そこで拙生せつせいは働はたらき始はじめ、例れいの藁屑わらくづを拾ひろつて出來できる丈だけ丈夫ぢやうぶな出來できる丈だけ長ながい繩なはを綯なつた。 之これを月つきの角つのに結むすび付け、追々おひ〳〵下したの方はうへ辷すべり下おりる。 拙生せつせいは左ひだりの手てで聢しかと繩なはを捉つかまへ、右みぎの手てに手斧てをのを持もち、繩なはの不用ふようになつた部分ぶぶんを切きつて下したに繋つなぐ。 即すなはち一里り降おりれば、上うへの方はうの一里りは切取きりとつて足あしの下したに繋つなぐといふ安排あんばいで、ど[Pg 33]うやらかうやら大分だいぶ下したの方はうまで來きたが、いくら同おなじ事ことを繰返くりかへしても、何なにしろ距離きよりが距離きよりだから、容易よういに皇帝サルタンの畑はたけへ着つかない。 もう五六里りといふ所ところで、繩なはがフツリと切きれ、拙生せつせいは目めの廻まはるやうな速度はやさで地下ちかに落おちて氣絕きぜつした。 此處こゝで地下ちかに落おちたといふ言葉ことばを味あぢはつて貰もらひたい。 普通ふつうなら地上ちじやうに落おちたと書かくのだが、其それでは事實じじつを傳つたへ兼かねる。 といふのは何なにがさて、五六里り上うへから落おちたのだから、身體からだの重味おもみと落おちた勢いきほひで、少すくなくとも深ふかさ九尋ひろばかりの穴あなが明あいた。 その穴あなの底そこで拙生せつせいは生氣しやうきに返かへつたのであるが、如何どうして這上はひのぼつて可いいか少時しばらくは勘辨かんべんに落おちなかつた。 しかし拙生せつせいは苦くるし紛まぎれに爪つめを用もちゐて先まづ坂さかを作つくり、次ついで段々だん〳〵を拵こしら[Pg 34]へ、實じつに千辛せんしん萬苦ばんくの後のちに、漸やうやく這上はひあがつて再ふたゝび此この世よの光ひかりに觸ふれた時ときは、まあその嬉うれしかつた事ことといつたら!(男爵だんしやくの爪つめは當時たうじ四十年ねんも切きらずに置おいた末すゑで充分じうぶん伸のびてゐた。 尤もつとも斯かういふ事ことがあらうと豫期よきして然さう伸のばした譯わけでもないといふ。 )

氷こほつた音樂おんがくの話はなし

 間まもなくトルコとの和議わぎが成なり、拙生せつせいは自由じいうの身みとなつてペテスブルヒを後あとにした。 拙生せつせいは立場たてば立場たてばで馬うまを替かへ、大急おほいそぎの旅たびをした。 狹せまい一本道ぽんみちに差さしかゝつたから、他ほかの馬車ばしやが此この細道ほそみちで行當ゆきあたらぬやうにと、拙生せつせいは御者ぎよしやに命めいじて合圖あひづのラッパを[Pg 35]吹ふかせた。 彼かれは一生いつしやう懸命けんめいに吹ふいた。 しかし何程いくら力りきむでも効かうは無ない。 彼かれは奈何どうしてもラッパを鳴ならす事ことが出來できなかつた。 何故なぜ鳴ならぬか、理由わけは分わからなかつたが、兎とに角かく生憎あいにくな事ことで、少時しばらくすると拙生せつせいの馬車ばしやは向むかふから來くる馬車ばしやと行當ゆきあたつた。 お互たがひに進すゝむ事ことは無論むろんならぬ。 さりとて前述ぜんじゆつの通とほりの細道ほそみちだから、車くるまを向むけ返かへす事ことは叶かなはず、隨したがつて退しりぞく事ことも出來できなかつた。 此この時とき拙生せつせいは馬車ばしやから下おりて、これでも少すこしは力ちからがあるから、馬車ばしや一式しきを飴屋あめやのやうに頭あたまに乗のせ、高たかさ九尺しやくばかりの生垣いけがきを飄ひよいと飛とび越こして、(馬車ばしやの重量おもさから言いつても、此この藝當げいたうは少々せう〳〵骨ほねが折おれた。 畑はたけに入いり、再ふたゝび飛とむで道みちを塞ふさげた馬車ばしやの向むかふへと出でた。 次つぎに拙生せつせいは馬うまを取とり[Pg 36]に行いつた。 一疋ぴきを頭あたまの上うへに乗のせ、一疋ぴきを左ひだりの腕うでに抱かゝへ、前まへと同おなじ方法はうはふで馬車ばしやまで持もつて行ゆき、喰付くつつけて、旅程りよてい最終さいしうの宿屋やどやに急いそいだ。 此この拙生せつせいが腋わきの下したに抱かゝへた方はうの馬うまは未まだ四歲さいにならぬ氣きの荒あらい奴やつで、拙生せつせいが再ふたゝび生垣いけがきを飛越とびこさうとする時とき、其その急激きふげきの動搖どうえうを可厭いやがつて、蹴けつたり鼻はなを鳴ならしたりして荒あばれるには拙生せつせいも持餘もてあました。 しかし拙生せつせいは其その後脚あとあしを捉つかまへてポッケットの中なかへ入いれて了しまつた。 宿屋やどやに着ついてから拙生せつせいと御者ぎよしやは暫時ざんじ休息きうそくした。 彼かれはラッパを臺所だいどころの火ひの側かたはらの釘くぎに吊つるし、拙生せつせいは其その對側むかふがはに坐すわつた。

 急きふにテレン〳〵テン〳〵といふ音おとが聞きこえた。 我等われらは周圍あたりを[Pg 37]見廻みまはして、さてこそと先刻せんこく御者ぎよしやがラッパを鳴ならし得えなかつた理由りいうが讀よめた。 彼かれの曲きよくはラッパの中なかで氷こほつたのだ!其それが今いま解とけて出でて來きたのだ!事理じり明晰めいせき、而しかも此この御者ぎよしやはナカ〳〵の音樂家ふきてである。 それで奴やつこさんラッパに口くちを當あてがひもせずに長ながい間あひだ一同みんなを樂たのしませた。 プロシヤ進行曲マーチが出でる、『野の越こえ山やま越こえ谷たに越こえて』が出でる、其他そのほか種々いろ〳〵の曲きよくが出でて、竟つひに氷釋ひやうしやく音樂おんがくは終をはりを吿つげた。 拙生せつせいも此處こゝでロシヤ旅行談りよかうだんは一段落だんらくとする。

鯨くぢらと軍艦ぐんかんの話はなし

 拙生せつせいは第だい一等とうの英國えいこく軍艦ぐんかん大砲たいはう百門もん乗組員のりくみゐん四百人にんといふの[Pg 38]に乗のつて、北きたアメリカに向むかひポーツマスを出發しゆつぱつした。 セントローレンス川がはへ三百リーグといふ所ところに着つくまでは、別べつに話題おはなしになるやうな事ことも起おこらなかつた。 其時そのときに船ふねは恐おそろしい勢いきほひで岩いはに突中つきあたつた。 拙生せつせい等らは多分たぶん岩いはだらうと思おもつたが、鉛線なまりを下おろして見みても底そこに屆とゞかぬ。 三百尋ひろ下おろしたが更さらに手答てごたへはなかつた。 此この事件じけんを尙なほ重大ぢうだいにし、且かつ拙生せつせい等らの見當けんたうのつき兼かねたのは、其その震動しんどうの烈はげしかつた事ことで、船ふねは舵かぢを失うしなひ、斜桅やりだしを破やぶり、檣マストは悉ことごとく頂上てつぺんから底もとまで折をれ、二本ほんは甲板かんぱんの上うへに倒たふれた。 運惡うんあしく大帆索おほほづなを卷まきに上あがつてゐた水兵すゐへいは少すくなくとも船ふねから三リーグの所ところに跳飛はねとばされたが、壽命じゆみやうの强つよい男をとこと見みえて、大おほきな鷗かもめの尻尾しつぽに捉つかまつて生[Pg 39]命いのち拾びろひをした。 鷗かもめは何なにも彼かも心得こゝろえてゐるといつたやうに、件くだんの男をとこを連つれて船ふねに急いそぎ、以前もと跳飛はねとばされた所ところに置おいて行つた。 震動しんどうの烈はげしかつた實例じつれいを尙もう一つ擧あげれば、甲板デツキと甲板デツキの間あひだにゐた水兵すゐへいは上うへの床ゆかに打付うちつけられた位くらゐ、拙生せつせいの頭あたまの如ごときは垂直すゐちよくに胃袋ゐぶくろに押込おしこまれて、舊もとの狀態じやうたいに歸かへるまでには數すうヶ月げつかゝつた。 此この理由えたいの分わからぬ騷動さうどうに拙生せつせい等らは且かつは驚おどろき且かつは恐おそれ、呆然ばうぜん自失じしつしてゐると、大おほきな鯨くぢらの尻尾しつぽが現あらはれたので、渙然くわんぜんとして百事ひやくじ氷釋ひやうしやくした。 鯨くぢらは水面すゐめん十六尺しやく以内いないの所ところで日向ひなたぼつこをして眠ねむつてゐたのである。 ところを拙生せつせい共どもの船ふねが邪魔じやまをしたから腹はらを立たてたものと見みえる。 拙生せつせい共どもは通過とほりすぎる途端とたんに、舵かぢで其その鼻はなを引搔ひつか[Pg 40]いた。 そこで彼かれは尾をを掉ふるつて、船尾せんびから後甲板こうかんばん一帶たいを打うち、殆ほとんど同時どうじに、例れいの通とほり下おろしてあつた大帆索おほほづなの碇いかりを把とり、口くちに啣くはへて船ふねを引ひいた儘まゝ、一時間じかん二十リーグの速力そくりよくで、少すくなくとも六十リーグ走はしつた末すゑ、幸さいはひ鎖くさりが切きれて、拙生せつせい共どもは一時じに鯨くぢらと鎖くさりを失うしなつたのである。 しかしながら數月すうげつの後のち、ヨーロッパへの歸途かへりみち、拙生せつせい共どもは同おなじ場所ばしよから數すうリーグの所ところで、其その鯨くぢらの死しんで浮ういてゐるのを見みつけた。 身長たけは一哩まいる半はん以上いじやう、斯かうした巨大おほきいものは極ごく小部分せうぶぶんしか取入とりいれる事ことが叶かなはぬから、拙生せつせい等らは短艇ボートを下おろし、漸やうやくの事ことで頭あたまを切取きりとつたらば、例れいの碇いかりと鎖くさりが四十リーグ許ばかり、口中こうちうの左側ひだりがは、丁度ちやうど舌したの下したで蜷局とぐろを卷まいてゐた。 是これには一同いちどう大喜悅おほよろこびで[Pg 41]あつた。 (多分たぶん是これが鯨くぢらの死因しいんであつたらう。 舌したの其側そのがはは甚ひどく腫上はれあがつて、焮衝きんしようを起おこしてゐた。 以上いじやうは此この航海かうかい中ちうに起おこつた唯ゆい一の土產みやげばなしである。 いや、尙なほ言いひ殘のこした事ことが一つある。 鯨くぢらが船ふねを引ひいて走はしる途中とちう船ふねが洩もり始はじめて、ポンプが總出そうでになつて働はたらいても、入はいつて來くる水みづの方はうが多おほかつた。 が、仕合しあはせな事ことには第だい一に其それを發見はつけんしたのは拙生せつせいである。 直徑ちよくけい一尺しやく大だいの穴あなで、此この大だい軍艦ぐんかんが其その勇敢ゆうかんなる乗組員のりくみゐん諸共もろとも、唯たゞ拙生せつせいの頓智とんちによつて沈沒ちんぼつを免まぬかれたといつたら、諸君しよくんは拙生せつせいの得意とくいを少すこしは察さつする事ことが出來できるであらう。 一言げんすれば、拙生せつせいは其その穴あなの上うへに坐すわつたのである。 これも拙生せつせいの祖先そせんが和蘭陀オランダ人じんから下くだつたといふ事ことを御承知ごしようちなら、諸君しよくん[Pg 42]は成なある程ほどと感嘆かんたん致いたすであらう。

 坐すわつてゐた間あひだはナカ〳〵冷つめたかつたが、間まもなく大工だいくが修繕しゆぜんを加くはへて、拙生せつせいの務つとめを解といて吳くれた。

譯者*やくしや曰いはく、是これは男爵だんしやくが次つぎの名高なだかい話はなしを引合ひきあひに洒落しやれたのであるが、其話それを知しらぬ人ひとには聊いさゝか樂屋落がくやおちの嫌きらひがある。 よつて其話そのはなしの筋すぢを左さに、

 和蘭陀おらんだは海うみを敵てきとする國くに、海うみより低ひくい土地とちが多おほいから、堤防ていばうを築きづいて水みづを堰止せきとめる。 が、浪なみは屢しばしば此この堤防ていばうを破やぶつて、人畜じんちくを殺ころし家屋かをくを流ながす。 或ある夕暮ゆふぐれ男をとこの子こが堤防ていばうに小穴こあなの明あいたのに氣きがついた。 水みづが滴々ちよぼり〳〵と洩もつてゐる。 彼かれは堤防ていばうの大切だいじな事こと[Pg 43]を聞きいて承知しようちしてゐた。 直すぐに家うちに走はしつて父ちゝに吿つげようかと思おもつたが、父ちゝが驅付かけつける迄までには日ひが暮くれる、穴あなが見みつからなくなるかも知しれぬ、或あるひは其間そのあひだに穴あなが大おほきくなるかも知しれぬ、と思返おもひかへして、其子そのこは其處そこに坐すわつて穴あなを押おさへた儘まゝ、一夜ひとよを明あかした。 朝あさになつて人々ひと〴〵が其それと心こゝろづき、直たゞちに修繕しゆぜんを加くはへ、一少年せうねんのお蔭かげで一地方ちはうが洪水こうずいを免まぬかれたといふ。

大魚たいぎよの話はなし

 拙生せつせいは或時あるとき地中海ちちうかいで、奇ひよんな事ことから一命めいを殞おとす所ところであつた。 其それは夏なつの日ひの午後ひるすぎで、拙生せつせいはマルセーユ附近ふきんの心持こゝろもちよい海うみで[Pg 44]游泳いうえいをしてゐた。 すると巨大おほきな魚さかなが大口おほぐちを開あいて、非常ひじやうな速力そくりよくで拙生せつせいに向むかつて來くるのを見みた。 咄嗟とつさの事ことで、避よける間まも如何どうする間まもない。 拙生せつせいは直たゞちに足あしを縮ちゞめ手てを縮ちゞめ首くびを縮ちゞめ、生うまれたての子このやうに、出來できる丈だけ身體からだを小ちひさくして、其儘そのまゝ大魚たいぎよの喉のどに躍込をどりこみ、次ついで胃ゐの腑ふに到着たうちやくした。 そこで少時しばらくは眞暗黑まつくらやみの中なかに凝ぢつとしてゐた。 暖あたゝかくて居心ゐごゝろが好よかつたらうつて?いや、諸君しよくんのお察さつしの通とほりだ。 しかし拙生せつせいは考かんがへた――斯かう文字もんじ通どほりに魚腹ぎよふくに葬はうむられて了しまつては仕方しかたない、何どうにかして出でなければならぬ。 それには痛いたい目めを見みせたら、大魚たいぎよも拙生せつせいを持餘もてあまして竟つひには吐出はきだすであらう。 運動うんどうする餘地よちは充分じうぶんあつたから、拙生せつせいはデ[Pg 45]illustratio45ングリカヘシを打うつ、トンボガヘリを爲する、高飛たかとび幅飛はゞとび宙返ちうがへりといふ風ふうに一生いつしやう懸命けんめいで惡戯いたづらをした。 殊ことに英國踊えいこくをどりをやりながら足あしを早目はやめに踏ふむのが一番ばん利きけたと見みえ、其それを始はじめると間まもなく、彼かれは時々とき〴〵拙生せつせいを吐出はきだしさうにする。 拙生せつせいは此處こゝを先途せんどと踊跳をどりはねる。 竟つひに彼かれは[Pg 46]恐おそろしい聲こゑを立たてゝ水中すゐちうに直立ちよくりつし、頭あたまから肩かたへ掛かけて身體からだを水面すゐめんに露出あらはした。 其それをイタリヤ商船しやうせんの人々ひと〴〵が見みつけて進すゝみ寄より、數分すうふんの後のちに、大魚たいぎよは銛もりで仕止しとめられた。 魚さかなが甲板かんぱんの上に引上ひきあげられてから間まもなく、拙生せつせいは、一番ばん澤山たんと油あぶらを取とるには何處どこから切きつたら可よからうかと、外そとで人々ひと〴〵の相談さうだんしてゐる聲こゑを聞付きゝつけた。 拙生せつせいはイタリヤ語ごが解わかるから、魚さかなを切きる拍子ひやうしに刄物はものが拙生せつせいに當あたつては大變たいへんと實じつに氣きが氣きでなかつた。 動物どうぶつの胃袋ゐぶくろの廣ひろさは十二三人にんの大男おほをとこを收容しうようするに足たる。 彼等かれらは無論むろん端はしの方はうから切始きりはじめるだらうと思おもつて、拙生せつせいは胃袋ゐぶくろの眞中まんなかに立たつてゐたが、拙生せつせいの恐怖おそれは間まもなく消失きえうせた。 彼等かれらは下腹したはらから切きり始はじめ[Pg 47]た。 切口きりくちから光線あかりが差さすや否いなや、拙生せつせいは最早もはや窒息ちつそくしさうだから早はやく助たすけて吳くれと呶鳴どなつた。 何なにしろ魚さかなが人間にんげんのやうな聲こゑを立たてたといふので、彼等かれらの驚愕きやうがくの性質せいしつ及および程度ていどは何程なにほど棒大ぼうだいに書かいても眞相しんさうを傳つたへる事ことが出來できぬ。 そして裸體はだかの拙生せつせいが直立ちよくりつしたなり魚さかなの腹部はらから步あるき出だした時ときには、彼等かれらの喫驚きつきやうは尙なほ一層ひとしほであつた。 一言げんすれば拙生せつせいは一部ぶ始終しじうを唯今たゞいま諸君しよくんに話はなす通とほり彼等かれらに話はなしたのである。 彼等かれらは呆あきれ返かへつて水みづを含ふくむだやうに默だまつて聽きいてゐた。

 食物しよくもつで元氣げんきをつけて、拙生せつせいは再ふたゝび海うみに飛込とびこむで身體からだを淸きよめた。 ぬら〳〵して生なまぐさくて氣持きもちの惡わるかつた事こと! それから岸きし[Pg 48]に游およぎ着ついたらば、着物きものは以前もと置おいた所ところにあつた。 時計とけいを出だして見みると、拙生せつせいは少すくなくとも四時間じかん半はん魚さかなの腹はらの中なかにゐた勘定かんぢやうになる。

 ヂブラルター包圍はうゐの話はなし

 先頃さきごろのヂブラルター包圍はうゐの間あひだに拙生せつせいはロドニー卿きやう引率いんそつの御用船ごようせんに乗のつて親友しんいうエリオット將軍しやうぐんに會あひに行いつた。 其後そのご同どう將軍しやうぐんはヂブラルターを守まもつた功勞てがらにより、永久とこしへに凋しぼまぬ桂かつらの冠かむりを得えた。 拙生せつせいは將軍しやうぐんに伴ともなはれて、守備しゆびの情勢じやうせい視察しさつ並ならびに敵軍てきぐんの作戰さくせん見物けんぶつに出でかけた。 拙生せつせいはロンドンのドルランドで求もとめた[Pg 49]最上さいじやうの望遠鏡ばうゑんきやうを携帶けいたいしてゐた。 其その力ちからを借かりて拙生せつせいは敵てきが拙生せつせい等らの立たつてゐる所ところを狙ねらつて三十六舊砲きうはうを發射はつしやしようとしてゐるのを確たしかめた。 そこで將軍しやうぐんに拙生せつせいの見みた所ところを吿つげると、將軍しやうぐんも望遠鏡ばうゑんきやうを覗のぞいて、全まつたく貴下きかの觀察くわんさつ通どほりぢやといふ。 拙生せつせいは將軍しやうぐんの許可きよかを得えて、近傍きんばうの砲臺はうだいから四十七臼砲きうはうを取寄とりよせるやうに命めいじ、長ながい間あひだ砲術はうじゆつの硏究けんきうをしてゐる難有ありがたさは、巧たくみに据付すゑつけを終をはつて狙ねらひを定さだめた。

 拙生せつせいは眤ぢつと先方せんぱうの樣子やうすを覗うかゞつてゐたが、敵てきが其その臼砲きうはうの火門くわもんに燐寸マツチを置おくと同時どうじに、『打うて!』と一聲せい信號あひづを發はつした。

 此方こつちの臼砲きうはうと先方むかふの臼砲きうはうとの殆ほとんど中途ちゆうとぐらゐの所ところで、雙[Pg 50]方さうはうの彈丸たまは猛烈まうれつな勢いきほひで行當ゆきあたつた。 結果けつくわは實じつに驚おどろく可べきもので、見みる〳〵先方せんぱうの砲丸たまは恐おそろしい勢いきほひで退却あとじさりを始はじめ、發砲はつぱうした男をとこの頭あたまを跳はね飛とばし、行當ゆきあたり次第しだいに十有いう餘人よにんを殪たふして、對岸たいがんアフリカ洲しうのバーバリーに逹たつした。 バーバリーに屆とゞいた頃ころは、既すでに一列れつに並ならむでゐた軍艦ぐんかんの檣マストを三本ぼん迄までも貫通くわんつうして、大分だいぶ力ちからが拔ぬけてゐたから、纔わづかに一いつ日傭取ひようとりの小屋こやの屋根やねを貫つらぬき、折をりから口くちを開あいて晝寢ひるねをしてゐた其その老妻らうさいの無なけ無なしの齒はを二三本ぼん碎くだいて、竟つひに其その喉頭こうとうに止とまつた。 間まもなく亭主ていしゆが歸かへつて來きて、丸たまを拔取ぬきとらうとしたが、迚とても駄目だめなので、㮶杖こみやを用もちゐて胃ゐに押落おしおとして了しまつた。 拙生せつせい等らの砲彈はうだんは實じつに偉大ゐだいの功こうを奏さうした。 啻たゞに敵彈てきだんを跳[Pg 51]返はねかへしたのみならず、拙生せつせい共どもを狙擊そげきした臼砲きうはうを拂退はらひのけて荷倉にぐらに落おち込こみ、力ちから餘あまつて船底ふなぞこを貫つらぬいた。 船ふねは見みる間まに浸水しんすゐして、乗組のりくみの西班牙スペイン水兵すゐへい一千、並ならびに多數たすうの陸兵りくへいと共ともに底そこの藻屑もくづとなつて了しまつた。 是これは寔まことに異例いれいの功績こうせきである。 然しかりと雖いへども、拙生せつせいは一個こに此この勲功くんこうを私わたくししない。 拙生せつせいの判斷はんだんが主動しゆどうであつたが、僥倖げうかうも亦また與あづかつて力ちからがある。 後のちに聞きく所ところによれば、我わが四十九臼砲きうはうを發射はつしやした砲手はうしゆは、何なにかの考かんがへ違ちがひで二倍ばいの火藥くわやくを塡つめたといふ。 全まつたく然さうでゞもなければ、敵彈てきだんを彈はじき返かへす等などといふ豫想外よさうぐわいの成功せいこうは决けして收をさめられるものでない。

 此この獨得どくとくなる勞役らうえきの効果かうくわを嘉よみし、將軍しやうぐんは將來しやうらい拙生せつせいを重おもく用もち[Pg 52]ゐたいといふ事ことであつたが、拙生せつせいは何なにも彼かも固辭こじして、其その夕ゆふべ將校しやうかう一同どうと共ともに晩餐ばんさんの食卓しよくたくに就ついた時とき、唯たゞ鄭重ていちようなる感謝かんしやの辭じだけを受うけた。

海馬たつのおとしごの話はなし

 拙生せつせいの有名いうめいな石投いしなげは父ちゝから直接ちよくせつに受繼うけついだものである。 是これに就ついて拙生せつせいは父ちゝから次つぎの物語ものがたりを聞きいた事ことがある。

 父ちゝは例れいの石投いしなげをポッケットに入いれてハーウイッチの海岸かいがんを散步さんぽしてゐた。 一哩まいるとは行ゆかぬ中うちに彼かれは海馬たつのおとしごといふ恐おそろしい動物どうぶつに襲おそはれた。 大口おほぐちを開あいて勢いきほひ猛まうに飛とびかゝつたといふ。 [Pg 53]illustratio53彼かれは一寸ちよつと度膽どぎもを拔ぬかれたが、直たゞちに百ヤード許ばかり退しりぞき、石いしを二個ふたつ拾ひろふ爲ために屈かゞむだ。 素もとより海岸かいがんの事ことだから石いしは澤山たくさんある。 彼かれは石投いしなげに込こめるより早はやく動物どうぶつを目蒐めがけて投なげ付つけた處ところ、狙ねらひ違たがはず兩方りやうはうの眼まなこに中あたり、玉たまが飛出とびでた拍子ひやうしに、石いしは其その跡あとに聢乎かちりと嵌はまり込こむだ。 そ[Pg 54]こで彼かれは其その動物どうぶつに跨またがつて海うみに乗込のりこむ。 海馬たつのおとしごは眼まなこを失うしなふと同時どうじに其その猛惡まうあくの性質せいしつを失うしなつて、極きはめて從順じうじゆんになつたといふ。 父ちゝは例れいの石投絲いしなげいとを手綱たづなとして動物どうぶつの口くちに宛行あてがひ、譯わけもなく海うみを渡わたり、三時間じかんとは立たたぬ中うちに、約やく三十リーグの對岸たいがんに着ついた。 ホルランド、ヘルベツルイスの三盃みつさかづきの君きみ、此この海馬たつのおとしごを公衆こうしうの縦覽じうらんに供きようしたいとて强たつての懇望こんまう。 そこで父ちゝは七百ダカット即すなはち三千圓ゑんに値賣ねうりをして、翌日よくじつ御用船ごようせんでハーウイツチに歸かへつて來きた。

鰕えびの木きの話はなし

 拙生せつせいは父ちゝが海馬たつのおとしごに乗のつて英國えいこく海峽かいけふを橫切よこぎり、ホルランドへ[Pg 55]行いつた旅たびの中うちの極ごく重要だいじな部分ところを話はなし落おとした。 間違まちがひのないやうに父ちゝの言葉ことばを借かりてお話はなししよう。 父ちゝは此この話はなしを幾度いくたびとなく友人いうじんに話はなし、其その都度つど拙生せつせいは承うけたまはつたから、確たしかなものである。 で、次つぎに拙生せつせいとあるは父ちゝの事ことである。

 ヘルベツルイスに到着たうちやくした時とき、拙生せつせいは呼吸いきづかひが苦くるしく見みえたさうだ。 如何どうした譯わけかと土地とちの人々ひと〴〵が訊きくから、實じつは拙生せつせいのハーウイッチから乗のつて參まゐつた動物どうぶつは、泳およいで來きたのではないと答こたへた。 彼等かれらの特性とくせいとして、彼等かれらは水面すゐめんに浮うかぶ事ことも泳およぐ事ことも出來できぬ。 彼等かれらは岸きしから岸きしまで海底かいていの砂すなの上うへを千萬せんまんの魚類ぎよるゐを愕おどろかして、話はなしても虛うそのやうな速力そくりよくで走はしる。 其その魚類ぎよるゐの大部[Pg 56]分だいぶぶんは尻尾しつぽの尖端さきに頭あたまがついてゐるといふ工合ぐあひで、拙生せつせいの懇意こんいにしてゐた魚さかなとは大分だいぶ形狀けいじやうを異ことにしてゐる。 拙生せつせいは高たかさアルプス山脈さんみやくと伯仲はくちうの間あひだにある岩脈がんみやくを通過とほりこした。 此この海底かいてい山脈さんみやくの最高所さいかうしよは水面すゐめんから百尋ひろ以上いじやうとの事ことである。 山腹さんぷく到いたる處ところ、大樹たいじゆ喬木けうぼく生おひ茂しげり、鰕えび蟹かに帆立貝ほたてがひを始はじめとして其他そのほかありとあらゆる海產物かいさんぶつが枝えだを絞しぼつて實なつてゐる。 其中そのなかには唯たゞ一個ひとつで、車くるまは愚おろか牛車うしぐるまにも積つみ兼かねるやうな大物おほものがある。 漁師れふしの手てに掛かゝつて魚うを市場いちばへ出でるのは極きはめて劣等れつとうの種類しゆるゐで、正まさに波落なみおちといふ可べき代物しろものである。 果樹園くわじゆゑんの果物くだものの風かぜに吹ふき落おとされたものを風落かざおちと呼よび、蟲むしに喰くひ落おとされたものを蟲落むしおちと稱しようするが如ごとく、此この海產林かいさんりんに波なみが[Pg 57]中あたつて枝えだから振ふるひ落おとしたものを波落なみおちといふ。 田螺たにし類るゐは蔓木つるぎで、蠣かきの木きの下したに生はえる。 恰あたかも蔦つたが樫かしの木きに卷付まきつくやうに蠣かきの木きに絡からむで、田螺たにしは零餘子むかごのやうに實なつてゐる。 拙生せつせいは處々ところ〴〵で破船はせんの結果けつくわを見みた。 其中そのなかに水面すゐめんから三尋ひろばかりの岩山いはやまに突當つきあたつて沈沒ちんぼつした船ふねがあつた。 沈しづむ時とき船側ふなばらが下したになつて、其處そこに生はえてゐた鰕えびの木きを根拔ねこぎにしたと見みえる。 其それは春はるで未まだ鰕えびが靑あをい頃ころであつた。 激はげしい震動しんどうの爲ために、實みは枝えだを離はなれて、直すぐ下したに生はえてゐた蟹かにの木きの枝えだに落おちた。 そこで植物しよくぶつの花粉かふんのやうに蟹かにの實みに結合けつがうして、蟹かにともつかず鰕えびともつかぬ一種しゆ異樣いやうの魚さかなになつた。 拙生せつせいは參考さんかうの爲ために一疋ぴき持もつて行ゆかうと思おもつたが、荷[Pg 58]厄介にやくかいになる上うへに、拙生せつせいの海中かいちうペガサスは頻しきりに急いそぎ、苟いやしくも旅たびを後おくれさせるやうな事ことは絕對的ぜつたいてきに拒こばむやうに見みえたから、不本意ふほんいながら斷念だんねんした。 且かつ當時たうじは殆ほとんど旅程りよていの中間ちゆうかんに逹たつし、深ふかさ五百尋ひろの一岩山がんざんを走はしつてゐて、空氣くうきの缺乏けつぼふをソロ〳〵苦くるしく感かんじ始はじめたから、餘計よけいな仕事しごとに手間てまを取とる氣きも出でなかつた。 のみならず拙生せつせいの立場たちばは何どの方面はうめんから見みても甚はなはだ不愉快ふゆくわいであつた。 拙生せつせいは幾多いくたの大魚たいぎよに出會であつた。 其その開ひらいた口くちによつて察さつするに、彼等かれらは拙生せつせいを呑のむ事ことが出來できるばかりでなく、確たしかに呑込のみこむ積つもりと見みえた。 拙生せつせいのロ*ジナンテは盲目めくらであるから、拙生せつせいは苦くるしい中なかにも氣きをつけて此この種しゆの動物どうぶつを警戒けいかいせねばなら[Pg 59]なかつたのである。

ペ*ガサスはベラーオホンの乗のつた翼つばさのある駿馬しゆんめ、ロジナンテはドンキホーテの愛馬あいばである。

白熊しろくまの話はなし

 我等われらはキヤプテン、フイリップ(今いまはマルグレーヴ卿きやう)の北極ほくきよく探險たんけん旅行りよかうを皆みな承知しようちしてゐる。 拙生せつせいは士官しくわんとしてゞなく、私友しいうとしてキヤプテンに同行どうかうした。

 北緯ほくゐ大おほいに迫せまつた時とき、拙生せつせいは先さきのヂブラルターの冒險ぼうけんの節せつ紹介せうかいした望遠鏡ぼうゑんきやうを以もつて周圍あたりの風物ふうぶつを瞻望せんぼうしてゐた。 すると拙生せつせい[Pg 60]は半はんリーグばかりの彼方あなたに、船ふねの檣マストよりも尙なほ高たかい氷山ひやうざんの上うへで、白熊しろくまと白熊しろくまの喧嘩けんくわをしてゐるのを見付みつけた。 で、拙生せつせいは早速さつそく銃じうを把とつて肩かたに引ひつ擔かつぎ、氷こほりの山やまを登のぼり始はじめた。 頂上ちやうじやうに逹たつした時ときは表面へうめんの凹凸おうとつ啻たゞならず、動物どうぶつに近寄ちかよる事ことは困難こんなんであつたばかりか、言いはん方かたなく危險きけんであつた。 時ときには底そこも知しれぬ隙目われめが道みちを妨さまたげる。 其樣そんな場合ばあひには目めを瞑ねむつて飛越とびこす外ほかに術すべがなかつた。 時ときには表面へうめんが鏡かゞみのやうに滑なめらかで、步あるくよりは辷すべる方はうが多おほかつた。 彈丸たまの屆とゞく近ちかくに來きて見みると、熊くまは咬合かみあひでなく、巫山戯ふざけ合あつてゐたのである。 拙生せつせいは少時しばらくは其その毛皮けがはの價値ねうちを胸算用むなさんようしてゐた。 各々おの〳〵肥こえた雄牛をうし位ぐらゐの大おほきさである。 不幸ふかうにして銃じうを差出さしだ[Pg 61]す刹那せつな、拙生せつせいは右みぎの足あしを踏辷ふみすべらせて、仰向樣あふむけざまに顚覆ひつくりかへつた。 正氣しやうきに返かへつた時ときには既すでに述のべたる此この怪物くわいぶつの一疋ぴきが、拙生せつせいに覆重おひかさなり、拙生せつせいのズボンの帶革バンドを捉つかみ、足あしは前まへ、頭かしらは後うしろといふ風ふうに、拙生せつせいを鞄吊カバンさげに吊さげて行ゆく所ところであつたから、其その驚愕おどろきは察さつして貰もらひたい。 拙生せつせい此この時とき少すこしも騷さわがず、上着うはぎのポッケットから短刀たんたうを把とるより早はやく、拔ぬく手ても見みせずに熊くまの後足うしろあしをちよきつと切きると、指ゆびが三本ぼんばらりと落おちた。 彼かれは立所たちどころに拙生せつせいを放はなして、聞きくも恐おそろしく咆ほえ猛たけつた。 拙生せつせいは直たゞちに銃じうを把とつて逃にげて行ゆく所ところを打うつと、丸たまは急所きうしよを誤あやまたず、さしもの猛獸まうじうも即座そくざに殪たふれた。 さて銃じうの響ひゞきが半はん哩まいる以内いないに眠ねむつてゐた白熊しろくまを悉ことごとく起おこした。 今いまや彼等かれらは[Pg 62]擧こぞつて拙生せつせいの許もとに集あつまつた。 眞まことに咄嗟とつさの間あひだである。 能よく進退しんたい谷きはまる男をとこだといふかも知しれぬが、拙生せつせいは全まつたく進退しんたい谷きはまる所ところであつた。 しかし恰あたかも善よし、此この時とき拙生せつせいの腦細胞なうさいぼうに仕合しあはせな奇智きちが湧上わきあがつた。 拙生せつせいは常人ひとが兎うさぎを剝はぐ時間じかんの半分はんぶんで、死しんだ白熊しろくまの皮かはを剝はぎ、手早てばやく其中そのうちに身みを匿かくし、熊くまの頭あたまから頭巾づきんのやうに敵てきを覗のぞいた。 拙生せつせいの計畫けいくわくは自家じか防衞ぼうゑいの上うへに大成功だいせいこうであつた。 彼等かれらは皆みな鼻はなをクスン〳〵いはせて拙生せつせいを嗅かぎ廻まはし、明白あきらかに拙生せつせいを兄弟分きやうだいぶんと心得こゝろえてゐる。 拙生せつせいは又また努つとめて猫背ねこぜになつて、事ことの露顯ろけんを防ふせがうとした。 然しかしながら拙生せつせいは此この熊くまの大部分だいぶぶんは拙生せつせいよりも小ちひさいといふ事ことに氣きがついた。 彼等かれらは拙生せつせいを凝視ぎようしし、次つぎに拙生せつせいに皮かはを剝は[Pg 63]illustratio63がれた朋輩ほうばいの死骸しがいを凝視ぎようししてから、我等われらは極きはめて社交的しやかうてきに見みえた。 拙生せつせいは巧たくみに彼等かれらの動作どうさを熊くま眞似まね小こ眞似まねする事ことが出來できたから、大おほいに羽振はぶりが利きいたのでもあらうが、唸うなる事こと哮ほえる事こと相撲すまふを取とる事ことにかけては、彼等かれらは何どうしても拙生せつせいの先輩せんぱいであつた。 時ときに拙生せつせいは[Pg 64]斯かくして彼等かれらの間あひだに作つくつた信用しんようを如何いかにして利用りようすべきかと考かんがへ始はじめた。

 脊柱せきちうの傷きずは直たゞちに人ひとを殺ころすといふ。 是これは豫かねて老軍醫らうぐんいから聞きいた事ことである。 で、拙生せつせいは一つ此この說せつを試驗しけんして見みる氣きになつて、再ふたゝび短刀たんたうに手てを掛かけ、遊あそび戯たはむれる風ふりをしながら、一番ばん大おほきな奴やつの首筋くびすぢをぐさりと刺さした。 ――尤もつとも仕損しそんじた日ひには、彼かれは直たゞちに飛とび掛かゝつて、拙生せつせいも微塵みぢんに裂さくだらうとしか思おもへぬから、いや拙生せつせいの心痛しんつうは實じつに一通とほりや二通とほりでなかつた。 が彼かれが少すこしも音おとを立たてずに拙生せつせいの足下あしもとに殪たふれた時ときは實じつに嬉うれしかつた。 そこで拙生せつせいは味あぢを占しめて、同おなじ方法はうはふによつて一疋ぴき殘のこらず殺ころす[Pg 65]決心けつしんをして、些細ささいの困難こんなんもなく成功せいこうした。 彼等かれらは同輩どうはいが拙生せつせいの手ての觸さはる每ごとに殪たふれても、一向かうに原因げんいんも結果けつくわも疑うたがはなかつた。 敵てきが悉こと〴〵く拙生せつせいの前まへに殪たふれた時とき、拙生せつせいは第だい二のサ*ムソンになつたやうな心持こゝろもちがした。

 其それから後さきの事ことを簡單かんたんに辻褄つぢつまつければ、拙生せつせいは船ふねに戾もどつて船員せんゐんの三分ぶんの一を借かり、手傳てつだつて貰もらつて革かはを剝はぎ、腿ハムを甲板かんぱんに搬はこむだ。 何分なにぶん大人數おほにんずうの事ことであるから、此この仕事しごとは三十分ぷんばかりで片付かたづいた。 他ほかの部分ぶぶんは悉皆すつかり海うみに棄すてゝ了しまつたが、然しかる可べき仕舞しまひをつければ腿ハム同樣どうやう食料しよくれうになつた事こと拙生せつせいの毫がうも疑うたがひを容いれぬ所ところである。

[Pg 66]サ*ムソンは舊約きうやく全書ぜんしよの人物じんぶつ、剛力がうりきの名なあり。

捕虜ほりよを救すくひたる話はなし

 拙生せつせいはヂブラルターから歸かへつて、英國えいこくに行ゆく爲ためにフランスを通とほつた。 外國人ぐわいこくじんの事ことであるから、所謂いはゆる旅たびの耻はぢは搔かき棄すてゞ、別段べつだんの不都合ふつがふにも出合であはなかつた。 カレーの港みなとで拙生せつせいは、戰爭せんさうで捕虜ほりよになつた英國えいこく水兵すゐへいを乗のせて到着たうちやくしたばかりの船ふねを見みた。 拙生せつせいは直たゞちに此この勇敢ゆうかんなる軍人ぐんじんに自由じいうを與あたへてやりたいといふ義俠心ぎけふしんを起おこし、次つぎの如ごとくにして美事みごと成功せいこうした。

 先まづ長ながさ四十ヤード幅はゞ十四ヤードといふ大おほきな翼つばさを一對つゐ[Pg 67]拵こしらへて、拙生せつせいは萬象ばんしやう未いまだ夢ゆめから覺さめぬ朝あさぼらけ、否いな、甲板上かんぱんじやうの番兵ばんぺいまでが眠ねむつてゐる頃ころに、大空おほぞら高たかく舞まひ上あがつた。 次つぎに船ふねの上うへに舞まひ下さがつて、鉤かぎを使つかつて例れいの石投いしなげの絲いとを三本ぼん檣マストの頂點ちやうてんに結付むすびつけ、船體せんたいを水面すゐめん數すうヤードの所ところに引上ひきあげてドーバーを指さして海峽かいけふを舞まひ始はじめ、三十分ぷんにして無事ぶじ到着たうちやくした。 最早もはや此上このうへは翼つばさの用ようもないから、其それは其儘そのまゝドーバーの城主じやうしゆに獻上けんじやうした。 今いままで彼かの地ちの博物館はくぶつくわんに參考品さんかうひんとして殘のこつてゐる。 ドーバーへ行いつたら是非ぜひ見みて來き給たまへ。

 捕虜ほりよ及および其それを護送ごさうしてゐた佛國ふつこく軍人ぐんじんは、ドーバーへ着ついてから二時間じかんに垂なんなんとする迄まで目めを覺さまさなかつた。 英人えいじんは事情じじやう[Pg 68]を知しるや否いなや、直たゞちに佛人ふつじんと地位ちゐを替かへ、且かつ捕獲ほかくされた物品ぶつぴんを取戾とりもどした。 彼等かれらは寛大くわんだいであるから進すゝむで報復的はうふくてきに新捕虜しんほりよの所有物しよいうぶつを掠かすめるやうな事ことはしなかつた。

獵犬れうけんトレイの話はなし

 拙生せつせいは船長せんちやうハミルトンと共ともに東ひがし印度いんど諸島しよたうへ航海中かうかいちう、トレイといふ愛犬あいけんを連つれてゐた。 彼かれは嗅犬ポインターで决けつして拙生せつせいを欺あざむいた事ことがないから、下世話げせわで申まをす土つち一升しよう金かね一升しよう、體重めかた丈だけを貴金きんで拂はらふからといはれても、手放てばなし難がたい尤物いうぶつであつた。 或日あるひ我等われらの觀察くわんさつによれば陸地りくちから少すくなくとも三百リーグの所ところで、トレイは獲[Pg 69]物えものを嗅付かぎつけた。 拙生せつせいは驚愕きやうがくの餘あまり、殆ほとんど一時間じかんといふもの、彼かれの樣子やうすを見守みまもつて、船長せんちやう並ならびに乗組のりくみの船員せんゐんに拙生せつせいの愛犬あいけんが獲物えものを嗅付かぎつけた以上いじやうは、既すでに陸地りくちは近ちかいのだらうと、事ことの次第しだいを話はなして聞きかせた。 此この話はなしは一同どうの大笑おほわらひを買かつたが、笑わらはれたからといつて、拙生せつせいのトレイに對たいする信用しんようは秋毫しうがうも變かはらぬ。 押問答おしもんだふの末すゑ、拙生せつせいは此この船ふねの船員せんゐん全體ぜんたいの眼まなこよりもトレイの鼻はなに信用しんようを置おくと大膽だいたんに言放いひはなち、尙なほ進すゝむでは、若もし半時間はんじかんの中うちに獲物えものが見付みつからぬやうなら、拙生せつせいは船賃ふなちん丈だけの金額きんがく、即すなはち百ギニイを進呈しんていすると申出まをしでた。 船長せんちやうは人ひとの好いい男をとこで、唯たゞ笑わらふばかりで本氣ほんきにしない。 そして船醫せんいのクローホート君くんに賴たのむで拙生せつせいの脈みやくを見み[Pg 70]させた。 クローホート君くんは賴たのまれなくても職分しよくぶん上じやう是非ぜひ一應おう診察しんさつせねばならぬといふ意氣込いきごみで、拙生せつせいの脈みやくを計はかつたが、拙生せつせいの健康けんかうに異狀いじやうのない事ことを明言めいげんした。 次つぎの會話くわいわが船長せんちやうと船醫せんいの間あひだに行おこなはれた。 低ひくい聲こゑで而しかも少々せう〳〵離はなれてゐたが、拙生せつせいには聞取きゝとる事ことが出來できた。

『精神せいしんに異狀いじやうがあるのでせう。 私わしは本氣ほんきで此樣こんな賭かけをする氣きになれない。 』『いゝえ私わたしの見立みたてでは頭あたまは健全たしかなものです。 矢張やはり此船こゝの船員せんゐんの判斷はんだんよりは犬いぬの嗅覺きうかくに重おもきを置おいてゐるのでせう。 賭かけを行やるといふなら行やつた方はうが宜いいぢやありませんか。 先方せんぱうが負まけるに定きまつてゐます。 又また負まけるのが當然たうぜんです。 』『いや先[Pg 71]方せんぱうが負まけるに定きまつてゐるから、私わたしは二の足あしを踏ふむのです。 斯かう結果さきが目めに見みえて居ゐちや賭かけになりませんからな。 兎とに角かく後あとで金かねを返かへす事ことにして一番ばん驚おどろかしてやらう。 』

 此樣こんな談話はなしの中うちにも、獵犬れふけんは同おなじ姿勢しせいをしてゐるから、拙生せつせいは尙更なほさら氣きが强つよくなつて、再ふたゝび賭かけを促うながすと、今度こんどは先方せんぱうも應おうじた。 『宜よろしい。 』『宜いいとも。 』が雙方さうはうの間あひだに交換かうくわんされるかされないに、艫ともに繫つないだ短艇ボートに乗のつて釣つりをしてゐた水夫共すゐふどもが、巨大おほきな鯊ふかを銛もりに掛かけた。 引上ひきあげて油あぶらを取とる積つもりで切開きりひらくと、どうも驚おどろく、此この動物どうぶつの胃袋ゐぶくろの中なかに生いきてる鷓鴣しやこが六對つがひまでゐた。

 彼等かれらの胃ゐの腑ふの中なかに餘程よほど長ながい間あひだゐたと見みえる。 一羽はの牝鳥めんどり[Pg 72]は卵たまごを四個よつ抱だいてゐた。 尙なほ一つの卵たまごは鯊ふかを開ひらいた時ときには丁度ちやうど孵かへる所ところであつた。 雛鳥ひなどりは其それから數分すうふん前まへに生うまれた猫ねこの子こと一緖しよにして育そだてた。 親猫おやねこは自分じぶんの四つ足あしの子こと同樣どうやうに、別わけ隔へだてなく此この鳥とりの子こを可愛かはゆがつたが、其それが舞上まひあがつてナカ〳〵歸かへつて來こない時ときには、見みる目めも氣きの毒どくのやうに心配しんぱいさうであつた。 他ほかの牝鳥めんどりも絕たえず一羽は以上いじやうは巢すについて、船長せんちやうの食卓しよくたくには鷓鴣しやこの絕たえる事ことがなかつた。 拙生せつせいはトレイのお蔭かげで美事みごと百ギニー儲まうけたから、其そのお禮れいとして彼かれには每日まいにち骨ほねを振舞ふるまひ、時ときには鳥とりを總身まるごと遣やる事ことにした。

[Pg 73]

月つき世界せかい旅行りよかう談だん

 拙生せつせいが銀ぎんの手斧てをのを探さがして一度ど月つきの世界せかいへ行いつた事ことは、既すでに諸君しよくん御承知ごしようちの通とほりである。 其後そのご拙生せつせいはもつと愉快ゆくわいな方法はうはふで再ふたゝび同地どうちへ旅行りよかうし、姑しばらく滯在たいざいの間あひだに種々しゆ〴〵面白おもしろい觀察くわんさつをした。 今いま次つぎに其その槪略がいりやくを拙生せつせいの記憶きおくが許ゆるすだけ精確せいかくにお話はなしして見みたい。

 拙生せつせいは遠とほい親類しんるゐの者ものの依賴たのみによつて、探險たんけん航海かうかいの途とに上のぼつた。 其その親類しんるゐといふのは頗すこぶる妙めうな空想かんがへを抱いだいてゐた。 彼かれの信しんずる所ところによると、ガリバーの大人國たいにんこくにあるやうな巨大おほきな人間にんげんは必かならず此この世界せかいにあるといふのであつた。 拙生せつせいは自分じぶんの意見いけんでは[Pg 74]大人國たいにんこくは作つくり話ばなしだと定きめてゐたが、彼かれは拙生せつせいに財產ざいさんを讓ゆづつてくれたから、其その恩おん報ほうじの爲ために、探險たんけんを引受ひきうけて南海なんかいに向むかつた。 南海なんかいに着ついても別べつに珍奇ちんきなものは見當みあたらなかつたが、空中くうちうに跳背戯うまとびや、舞踏ぶたふをしてゐる幾群いくむれかの翼つばさある男女だんぢよに出會であつた。

 キヤプテン、クックがオマイを連つれ出だしたといふオタハイテ島たうを過すぎてから十八日にちの後のち、暴風ぼうふうが起おこつて拙生せつせい共どもの船ふねを少すくなくとも海拔かいばつ四千リーグの所ところに吹上ふきあげた。 拙生せつせい共どもは當分たうぶん其その高たかさに碇いかりを下おろしてゐると、又またも大風おほかぜが吹起ふきおこつて帆ほといふ帆ほを悉こと〴〵く孕はらませ、我等われらは目めの廻まはるやうな速力そくりよくで旅たびを續つゞけた。 斯かくして進すゝむ事こと六週間しうかんの後のち、竟つひに拙生せつせい共どもは丸まるい光ひかつてゐる島しまのやうな[Pg 75]一陸地りくちを發見はつけんした。 そこで便利べんりのいゝ港みなとに入はいり、次ついで上陸じやうりくし、間まもなく人ひとの住すむでゐる事ことを確たしかめた。 拙生せつせい共どもの下したには都會とくわい山脈さんみやく森林しんりん川海かはうみ等とうを持もつた地球ちきうが見みえた。 多分たぶん拙生せつせい共どもの後あとにして來きた此この世界せかいだらうといふ鑑定かんていであつた。 此處こゝで拙生せつせい共どもは頭あたまの三個みつある非常ひじやうに大おほきい禿鷹はげたかに乗のつた人々ひと〴〵を見みた。 此この鳥とりの巨大おほきさは、翼つばさの片かた一方いつぱうの幅はゞが拙生せつせい共どもの乗のつてゐた六百噸とんの船ふねの大おほ帆索ほづなの長ながさの六倍ばいあると申まをしたら、大體だいたいの見當けんたうが付つくだらうと思おもふ。 我等われらが此この世界せかいで馬うまに乗のるやうに、月世界げつせかい(既すでに拙生せつせい共どもは知しらぬ間まに月世界げつせかいに入はいつてゐたのである。 )の住民ぢうみんは皆みな此この鳥とりに乗のつて步あるく。 拙生せつせい共どもの謁見えつけん仰おほせ付つかつた帝王ていわうは、當時たうじ太陽たいやうと戰[Pg 76]爭せんさう最中さいちうで、拙生せつせいを是非ぜひ司令官しれいくわんに任用にんようしたいとの仰おほせであつたが、拙生せつせいは同伴つれもある事ことだし、事情じじやうに通つうじてゐないから、只管ひたすら陛下へいかの有難ありがたい思召おぼしめしを御辭退ごじたい申上まをしあげた。 月つきの世界せかいでは凡百すべての物ものが法外はふぐわいに巨大おほきい。 一例れいを申まをせば蚤のみが羊ひつじぐらゐある。 いや、羊ひつじよりも少々せう〳〵大おほきからうか。 兎とに角かく其樣そんな工合ぐあひだから、他たは皆みな以もつて類推るゐすゐする事ことが出來できるであらう。 戰爭せんさうに當あたつて主おもなる武噐ぶきは大根だいこんである。 大根だいこんを投槍なげやりとして用もちゐ、あれで負傷ふしやうすると即死そくしするといふ話はなしだ。 彼等かれらの楯たては蕈類きのこるゐで出來できてゐる。 投槍なげやりは大根だいこんの無ない時節じせつには石刀柏つまばうどの先端さきの方はうを代用だいようするさうだ。 此處こゝでは天狼星てんらうせいの住民ぢうみんを見みる事ことが出來できた。 彼等かれらは商業しやうげふの民たみで彼地あつち此方こつちと漂泊へうはくす[Pg 77]illustratio77る。 顏かほは犬いぬに似にて眼めは鼻はなの頂上てつぺんにあるが、眼瞼まぶたといふものがない。 しかし眠ねむる時ときには舌したを伸のばして眼めを塞ふさぐといふ。 身長みのたけ普通ふつう二十尺しやく、月世界げつせかいの住民ぢうみんに至いたつては尙なほずつと大おほきく、三十六尺しやく以下いかは矮小せいつぴくの部類ぶるゐに入はいる。 彼等かれらは人間にんげんとは呼よばれてゐない。 料理れうり動物どうぶつといふ[Pg 78]名なである。 即すなはち動物どうぶつではあるが、普通ふつうの動物どうぶつと異ことなつて、我等われらのやうに火ひを用もちゐて食物しよくもつを料理れうりする。 而しかも彼等かれらは食事しよくじの爲ために時間じかんを潰つぶさない。 料理れうりが濟すむと左ひだりの腹はらを開ひらいて一時じに悉皆すつかり塡つめ込こみ、次つぎの月つきの食事しよくじの日ひまでは其儘そのまゝ固かたく閉とぢて置おく。 彼等かれらは年ねんに十二回くわい、即すなはち月つきに一度ど以上いじやうは食事しよくじを取とらぬ。 大食家たいしよくかや食道樂くひだうらくを除のぞいては、此この方法はうはふが簡便かんべんで好よからうと思おもふ。

 此この料理れうり動物どうぶつには一性せいしかない。 彼等かれらは皆みな木きから生うまれる。 料理れうり動物どうぶつを生うむ木きは他たの木きよりも美うつくしい。 枝えだが眞直まつすぐで葉はは肉色にくいろを帶おびてゐるから、一見けんして區別くべつが付つく。 實みは胡桃くるみの類るゐで、長ながさ少すくなくとも一ヤードの堅牢けんらうな殼からの中なかに入はいつてゐる。 熟じゆくし始はじめると[Pg 79]色いろが變かはるから知しれる。 其それを極きはめて丁寧ていねいに收穫しうかくして、適宜てきゞの時間じかん貯たくはへて置おく。 此この胡桃くるみの種たねを生いかさうと思おもふ時ときには、湯ゆの煑にたぎつた大釜おほがまの中なかへ投ほうり込こむ。 數時間すうじかん茹うでると、殼からが蜆しゞみのやうに口くちを開あいて、中なかから料理れうり動物どうぶつが飛出とびだす。

 造化ざうくわは眞まことに妙巧めうこうで、生うまれぬ前まへから彼等かれらの心性しんせいに從したがつて其その職業しよくげふを定きめて置おく。 即すなはち第だい一の殼からからは軍人ぐんじんが生うまれ、第だい二の殼からからは哲學者てつがくしやが生うまれ、第だい三の殼からからは神かみが生うまれ、第だい四の殼からからは辯護士べんごしが生うまれ、第だい五の殼からからは百姓ひやくしやう、第だい六の殼からからは田舎漢ゐなかもの、第だい七の殼からからは盜賊どろぼうといふ風ふうで、彼等かれらは生うまれると直すぐに、既すでに理論りろんで承知しようちしてゐる所ところを實行じつかうに依よつて完成くわんせいに取とりかゝる。

 [Pg 80]年としが寄よつても彼等かれらは死しなぬ。 空氣くうきに化くわして煙けむりのやうに解とけて了しまふ。 飮料いんれうとしては何物なにものも用もちゐない。 手てには唯たゞ一本ぽんの指ゆびがあるばかり、而しかも此この指ゆびを用もちゐて我等われらが五指しを動うごかすよりも完全くわんぜんな仕事しごとをする。 彼等かれらの頭あたまは右みぎの腕うでの下したにある。 旅行りよかうをしたり荒あらい仕事しごとをしたりする時ときは、頭あたまだけ家うちへ置おいて來くるのが通例つうれいである。 といふのは遠方ゑんぱうにゐても隨時ずゐじ頭あたまと相談さうだんする事ことが出來できる、是これは家常かじやう茶番ちやばんの事ことである。 若もし月人げつじん中ちう高貴かうきの者共ものどもが平民へいみん社會しやくわいの出來事できごとを知しりたいと思おもふ時ときには、家うちに引籠ひきこもつてゐて、頭あたまだけを派遣はけんする。 彼等かれらの頭あたまは人ひとの目めにつかぬやうに、何處どこにでも居ゐる事ことが叶かなふから、充分じうぶん事情じじやうを觀察くわんさつして歸かへつて來こられる。

 [Pg 81]此國このくにの葡萄玉ぶだうだまは宛然さながら雹へうのやうである。 月つきの世界せかいに大風おほかぜが起おこつて葡萄ぶだうの蔓つるを震ふるひ、玉たまを落おとす時ときには、拙生せつせいは何時いつも大恐悦だいきやうえつ、丁度ちやうど人間にんげんの世界せかいに雹へうの降ふるやうな光景くわうけいである。 所ところで拙生せつせいは拙生せつせいと同意見どういけんの諸君しよくんにお勸すゝめ致いたすが、今度こんど雹へうの降ふつた時ときには貯たくはへて置おいて、月世界げつせかいの葡萄酒ぶだうしゆを造つくつて見みたら宜よからう。 尙なほ重要じうえうな見聞けんぶんを話はなし落おとした。 其それは料理れうり動物どうぶつが我等われらが袋ふくろを使つかふやうに腹はらを利用りようする事ことである。 何なんでも必要ひつえうがあると腹はらの中なかに仕舞しまひ込こむ。 其それといふのも胃袋ゐぶくろ同樣どうやうに彼等かれらの腹部ふくぶは開閉かいへい自在じざいなのである。 而しかして彼等かれらの間あひだには内臓病ないざうびやうといふものがない。 又また着物きものは一切さい用もちゐない。 丸裸まるはだかでゐるけれど、見苦みぐるしい所ところとては一箇所かしよも[Pg 82]ない。

 彼等かれらの眼まなこは自由じいう自在じざいに取外とりはづしが出來できる。 之これを手ての先さきに付つけても頭あたまと同樣どうやうに物ものを見みる事ことが出來できる。 若もし何なにかの過失まちがひで眼めを失うしなつたり損そんじたりすると、他人たにんから借用しやくようも出來でき、買入かひいれも出來でき、自分じぶんの眼めと異ことなる所ところなく明瞭はつきりと物ものを見みる事ことが出來できる。 斯かういふ次第しだいだから、月つきの世界せかいでは何どの地方ちはうへ行いつても目め商人しやうにんが至いたつて多おほい。 そして又また此この品物しなものに限かぎつて流行はやりがある。 或時あるときは黃眼くわうがんが流行はやり、或時あるときは綠眼りよくがんが流行はやる。

 以上いじやうの見聞けんぶんは諸君しよくんには耳新みゝあたらしい事ことと信しんずる。 しかしながら、若もしマンチヨーゼン奴め、好いい加減かげんなちやらつぽこを言つてゐ[Pg 83]る等などと疑うたがひを起おこす人ひとがあるならば、拙生せつせいは何なんとも言いはぬ、唯だゞ一度ど彼かの地ちへ旅行りよかうして實地じつち踏査たふさをするが宜いい。 百聞ぶん一見けんに若しかずで必かならずや拙生せつせいの言葉ことばに懸價かけねのない事ことが分わかるであらう。

法螺男爵旅土產終


明治四十二年三月卅一日印刷    法螺男爵旅土產
明治四十二年四月五日發行      定價金貳拾五錢
            著作者  佐々木邦
  不 許       發行者  山縣文夫
                  東京府下北豐島郡巢鴨町
                  大字上駒込十九番地
  複 製       印刷者  藤本兼吉
                  東京市牛込區市ケ谷加賀町
                  一丁目十二番地
            印刷所  株式會社 秀英舎第一工場
                  東京市牛込區市ケ谷加賀町
                   一丁目十二番地
發行所 東京巢鴨郵便區上駒込山縣邸内    内外出版協会
    電話(長距離加入)下谷四百三十八番
              (振替貯金口座東京三百五十五番)

Transcriber's Notes(Page numbers are those of the original text)

誤植と思われる箇所は以下の通り訂正した。

原文 世よの常ねの(p.21)

訂正 世よの常つね

原文 投とんじ(p.26)

訂正 投とうじ

原文 小枝こえと新芽だめ(p.29)

訂正 小枝こえだと新芽しんめ

原文 惡戯をした(p. 45)

訂正 惡戯をした。

●文字・フォーマット・その他に関する補足

本文の前に「はしがき」が二頁にわたって書かれていたが、字がかすれて判読できず、割愛せざるをえなかった。

原文の爵の字は「嚼」から「口」をのぞいたもの。

また節の字は「卽」に竹冠。

p. 43 「拙生せつせいは或時地中海で……」の段落は一字字下げした。






End of the Project Gutenberg EBook of Horadanshaku tabimiyage, by Kuni Sasaki

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Professor Michael S. Hart was the originator of the Project Gutenberg-tm
concept of a library of electronic works that could be freely shared
with anyone.  For thirty years, he produced and distributed Project
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